この記事を書こうと思った理由
こんにちは。
私もかつて「イタリアの震災被災者を支援する前に、日本にも被災者はいるだろう、なんで彼らをまず助けないんだ? 非国民! 売国奴!」と言われたことが何度もあります。
参考までに「非国民」というのは、よく太平洋戦争(第二次世界大戦)中に「日本人ならこういうことをするのにお前はしないだろう、お前は日本人ではない! さっさと日本から出ていけ!」といった意味合いがある、当時としては最大級の罵倒語でした。現在ではその意味は弱まりましたが、主に国粋主義者が使う言葉です。
国際協力をする人間としては、避けては通れない道なのかもしれません。そして、それを言われるたびに悲しいでも怒るでもなく、なんともいえない気持ちを感じています。
しかし、いまの私なら、彼らに言い返すことができます。ただ黙るだけでは、伝えたいことは伝わりません。もちろん、彼らが自己中心的だと感情的に批判するのは間違っていますし、彼らは自己中心的ではありません。国際協力の現場を知らないだけなのです。
国際協力のたくさんの分野
国際協力といっても、かなりの分野があることを最初に言いたいと思います。女性の支援、貧困の支援、戦災者の支援、被災者の支援、教育支援など、たとえば「タンザニアで働いている」といっても内容には大きな違いがあります。
国際協力だけの話ではありませんが、同じ仕事をしているひとはいないのです。
そのため、戦争などの迫害から逃れた避難者に医療を施す国境なき医師団といった緊急度の高い仕事ももちろんあります。イタリアの被災地支援(私がしたいのは主に心理的支援です)のように中長期的な支援が必要な現場もあるのです。そのため、「国境なき医師団はいいことをしているがイタリアの心理的支援などはまず不要だろう」ということはまずなのです。分野が違うだけですから。そして、小さなNPOであればあるほど、小さな分野への小回りの利く支援が行えるのです。大きな組織だと大きなことができますが、細かな配慮や細かなニーズを満たすことは難しくなるかもしれません。そのため、「大きな組織だけが国際協力を行えばいい」という考えも違うのです。
それはまるで「バイクは事故が多いから、バイクなんてさっさと地球上から廃止して車に切り替えよう」といっているようなものです。市内を周遊するならバイクのほうが便利な場合もありますし、遠くまで行くなら車のほうがいい、そういったものです。バイクのほうが燃費において優れているので、車と単純な比較はできないはずです。
自分の使命を果たせる場所は、自国(日本)かもしれないし、遠く離れた海外かもしれない
世界には、必ず自分の居場所があるはずです。世界は広いですから、自分が快適だと感じられる場所、落ち着ける場所、したいことややるべきことができる場所、情熱を満たせる場所、愛し愛される喜びを感じられる場所が必ずあるはずです。
その場所を私は既に見つけていますが、それがイタリアであったというだけの話であって、「日本をまず助けなさい」というひとはその場所が日本であったというだけの違いなのです。
生きている意味を見出せる場所は、世界のどこかに必ずあります。
イタリアを助けることと日本を助けることには相関関係がないようで、実はある
彼らは「イタリアを助けるなら日本が助からなくなる」とよく言いますが、そうではありません。イタリアを支援していることが、日本を支援することにもつながることがあるのです。なぜなら、国が違っても、逝かせるノウハウや知識や実績があれば、支援する主な国を変更するのはさほど難しいことではないからです。支援する分野(被災地支援)をイタリアとトルコで行う、といったこともできるでしょうし(トルコも震災が多い国です)、イタリアで女性の支援も追加で行うということもできるはずです。ただ、後述しますが、関係の薄い国と分野(例えば、イタリアの震災とウクライナの戦争)ということだけが難しいのです。
例えば研究データがイタリアで得られれば、そのデータは日本でも有効なものになるでしょう(外国人対象の調査、という但し書きはつきますが)。
例えば「イタリアの被災者が私のアイデアにより助けられた」という実績があれば、誰かが「よし、それを日本でもやってみよう」とインスピレーションを与えることになるかもしれません。
例えばイタリアで日本人が災害に遭ってしまった場合、私は彼らを助けることにもなるのです。日本でイタリア人が災害に遭ったら日本の別の団体が助けることになるでしょう。
例えばイタリアで良い心理的支援のノウハウが生まれれば、そしてそれを私が生み出せれば、それを日本の非営利組織が活かすこともできるでしょうし、その逆もあります。
また、「まず日本を助ける」といった優先順位をつけているようでいて、実際はあくまでも税法上の国が違うだけで、この密接に影響しあう世界では互いに助け合っているのです。
自分にできる国際協力をするしかない
たとえば、イタリアで被災地支援をしている私が、ウクライナでの戦争にこころを痛めていますが、残念ながら私はウクライナ語は話せませんし、ウクライナのことを何も知りませんし、1からウクライナ支援のための団体を作るのは、分野(災害と戦争)が違うこともありあまり簡単なことではありません。
しかし、逆に例えばウクライナ支援をしている方がイタリアの被災地支援をしたいと思っても、それはあまり簡単なことではないはずです。
そして、ウクライナの避難民はウクライナの戦争被害者を支援する団体を、イタリアの被災地に住む人はイタリアの被災地支援の団体を必要としているはずです。
そのため、結局私達ができることは、自分にできる範囲の国際協力をするしかないという、ごくごく簡単でちっぽけなことなのです。
それが私にとってイタリアであり、誰かにとっては自国であり、誰かにとってはアフリカである、それだけの違いなのです。イタリアを選択すれば日本が選択されなくなるというわけではなく、繰り返しますが、あくまでも自分のからだがおもに置かれる場所がどこなのかというだけの話なので、国を変えることはさほど難しいことではないのです。
自分にできることをすることが、一番正しく楽しいことなのです。
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