こんにちは。ほのかです。
人生に希望を持つという自己欺瞞
人生には絶望して何もかも意味のないようなことに思えてしまうような瞬間もあれば、希望で満たされて何でもできる気がするような素晴らしい瞬間もあります。人生が後者のような綺麗な瞬間ばかりでできていればいいのですが、残念ながらそうではないことは、人生を15年も生きていればわかってきます。
それでも、「人生には素晴らしい楽しいことがたくさんあるから、絶望せずに生きよう」とか、「いまはつらくても生きていればきっといいことがある」とか、そんな綺麗事ばかりを口にする大人がいます。人生はつらくて苦しくてもう投げ出したくなるようなことがあることを見にもって知っていても、そのように言ってしまうのです。
哲学の言葉で「自己欺瞞(ぎまん)」という言葉があります。この言葉を辞書で引くと「自分で自分の心をあざむくこと。 自分の良心や本心に反しているのを知りながら、それを自分に対して無理に正当化すること。」と出てきます。簡単に言えば、自分が嘘をついているのがわかっているのに「私は正しい」と思ってしまうことをいいます。私は、このような綺麗事しか言わない大人たちは、実は人生がそんなに素晴らしいものではないということを知っていても、それでも無理に「人生は素晴らしい!」と思っているのだと感じています。
なぜでしょうか?
それは宗教を信じる理由、人を愛する理由と同じようなものだと思うのです。
なぜ人は宗教を信仰するのか
私が思うに、宗教を強く意識するのは人生がうまくいっているときではなく、人生に苦しんでいるときだと思うのです。
私は一応クリスチャンの端くれですが、仏教だろうとイスラム教だろうと、神様(もしくはそれに値するもの)に祈りたくなるのは、いつだって助けを求めるときです。「神様どうか助けてください」「神様どうか私の病気を治してください」「神様どうか災害で苦しむ人々を助けてください」など、このように人々は苦しんだ時だけに神様に対して祈るのでしょう。
もちろん本当に熱心な信徒は「神様、いつもこのような素晴らしい恵みをありがとうございます」と毎日祈るのでしょうが、それは一般的な感覚とは少し違うような気がしています。
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
マルコによる福音書 2:17
このみことば(聖書に書かれている言葉)の解釈は長くなるので省きます。本当にこのみことばが言いたいこととは少し異なることをこれから言います。
健康な人はそもそもお医者さんの助けを必要としませんし、心が健康な人は心理士の助けを必要としません。病気になってはじめて医者に行き、心を病んではじめて心理士のもとに行きます。
そのように、人生が恵まれている人は宗教を必要としないのではないかと、私は思うのです。
なぜ人は人を愛するのか
アダムとイブが生まれ、それからここまで私達人間は途絶えることなく生きてきました。それは自然に人々が恋に落ち、人を愛してきたからなのだと思うのです。仮に自然に恋愛が生まれなくても、昔はお見合いや合コン、現在は出会い系サイトを使って人々は恋愛をします。「私は恋愛なんて興味ないし、一生独身でいい」という人間が多数派だったのなら、とっくの昔に人類は滅んでいたでしょう。
この問いの答えはもちろんひとつではありませんが、その問いのひとつの答えになりうることを歌っている曲があります。
毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く
花束を君に(宇多田ヒカルの曲)
ただ楽しいことばかりだったら
愛なんて知らずに済んだのにな
私はイタリア人と結婚したということでしか彼女を知りませんでしたが、この曲をどこかで聞いたことにより、彼女の存在を認知するようになりました。そんな話はどうでもいいのですが、この歌詞が言いたいのは、「苦労や淋しみ」を埋めるために人は人を愛するのではないか、と思うのです。
人生はそううまくいかないものであることを、私達は知っている
話は戻りますが、結局人は希望だけでは生きていけないのです。どんなにつらいことがあっても必ず前を向いて頑張って生きているように見える人でも、実は陰で泣いていたり、人一倍苦しんでいたりするのだろうと、私はこれまでの経験から思います。
では、仮に人生がすべて満たされていたら、その人の人生は幸せなものなのでしょうか?世界中から集めた素晴らしい食材、家具、衣服…それらがあれば、人々は幸せになれるのでしょうか?
私は、その答えを聖書から見つけることができます。
人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。
マタイによる福音書4:4
たとえ物質的に満たされても、結局人が必要とするのは精神的なものであるという意味です。
私が絶望から学んだこと
では、その「精神的なもの」を満たすためには、私達はどうしたらよいのでしょう?
ここで私が見出した答えは、「希望を持ちすぎない」ということです。希望なんて持つから苦しくなるのです。人生に過度に期待をしすぎなければ、つまり適度に絶望していれば、人生はきっと生きやすいものになるはずです。
私は14歳の時に精神疾患になり、病気のせいで何度も死にたいと思いました。生きることはなんて苦しいことなんだろう、人生はなんて厳しいものなのだろうと何度も絶望しました。そして、精神科にも入院しました。
そのときのことは、ここに書いています。
そして私が気づいたのは、どんなに頑張っても、結局生きることは苦しいことなのだということです。どんなに綺麗事で取り繕っても、結局のところ人生には苦しいことやつらいことが嫌になるほど起きます。どんなに希望を求めても、どんなに楽観的に考えていても、誰の元にも不幸は訪れます。思った通りにはならないし、人々は平気で人々を傷つけるし、世界には心を病んでしまうような悲しい出来事があまりにも多すぎます。戦争が人類の歴史上終わったことはないし、悲惨な災害は相次ぐし、目を覆いたくなるような刑事事件も数え切れないほど起きています。
私は、人生とは虚無であると思っています。
人間は、何もないところから生まれ、何もない人生を生きて、そして何もないところに行くのです。私はクリスチャンなので、行きつく場所は「神の国」つまり神様の愛に溢れた場所だとも信じていますが、少なくとも「今私が生きている世界」からは完全に消えてしまうのです。
生きることも虚しい。生きて何かをしようと思うことも虚しい。そして死ぬことも虚しい。それが人生なのではないか。
そう思ってから、私は人生に過度な期待をすることをやめました。
人生に期待をしていないカフカの名言
ここで私が友人に紹介されて感動した本のことを紹介します。この本は聖書とともに、私の人生におけるバイブルと呼んでも差し支えない本です。

この本の中で、特に私の心に残った言葉を紹介します。
死にたいという願望がある。
罪、苦悩、希望、真実の道についての考察
そういうとき、この人生は耐えがたく、
別の人生は手が届かないようにみえる。
イヤでたまらない古い独房から、
いずれイヤになるに決まっている新しい独房へ、
なんとか移してほしいと懇願する。
どんなに頑張って「新しい独房」に行ったところで、どうせ「いずれイヤになるに決まっている」のです。そう考えると、もちろん生きることも苦痛なのですが、どうせ死んだところでまた新たな苦難が起きるのです。
さいごに
私が自殺したいと思っていたころ、それは生きていることがあまりにも苦痛だからこそ、死んだらその苦痛から逃れられるかもしれないという一縷の希望があったからです。少なくとも死んでしまえば今感じている絶望とは違うものを感じるのだろう。それは絶望かもしれないけれど、希望かもしれない。
それでも、結局死んだ先にあるものは絶望かもしれません。
こんなに長く書きましたが、結局私が言いたいのは、
人生とは虚無である。期待しすぎてもどうせ絶望するのだから、最初から絶望していたほうがいい
ということです。
ご清聴ありがとうございました。
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