こんにちは。ほのかです。
私はこちらの記事で、人生というのは本当に虚無なものだと書きました。
今回は、「人生に生きる意味はない」ということと、その理由に関して書いていこうと思います。
人生に生きる意味があるという誤解
人生に生きる意味があると思うから、ただでさえ苦しい人生はもっと苦しくなってしまうのです。たしかに、「こんなに悲しい経験もきっと何かの役に立つだろう」と思うことで、もう少し踏ん張れるということはあります。ただ、そう思うことで実際に何かの役に立ったでしょうか?
少なくとも私の19年間の人生では、そのような期待は何の役にも立たなかったどころか、余計に「結局何の役にも立たなかったじゃないか!」と思い絶望を更に深めた回数のほうが圧倒的に多かったです。
人生には2通りの生き方がある
人生を生きる態度として、2通りの方法があります。
これは、哲学者の池田晶子さんや中島義道さんが言っていたことです。
私達は、「人生ではどんなに頑張ってもうまくいかないこともあれば、どんなに手を抜いてもうまくいってしまうこともある。人生でどんなに苦しんでも、逆に人生がどんなに楽しくても、結局のところ、私達はいずれ死んでしまう」ということを本能的に知っています。
まさか、ある程度の年齢になってまで「私は絶対に死なない!」と大真面目に考えている人なんていないですよね。
そのうえで、
- 人生におけるこれらのことと正面から向き合って生きていく方法
- 人生におけるこれらのことから逃げ続けて生きていく方法
があります。
この場合、池田晶子さんは、前者のほうが賢い生き方だと言っています。なぜなら、後者が不可能であることを私達は実は知っているからです。
そして、後者のような生き方をするために、自分で自分にうそをつくことを、哲学の用語で「自己欺瞞(ぎまん)」といいます。
ただ、私はこのブログで「この方法がより良い」などと議論するつもりはありません。後者の生き方でも、結局本人が幸せならばそれでいいと思っているためです。
では、本題に入っていきましょう。
人生に生きる意味がない理由1つめ: どんなに頑張っても努力が報われるとは限らないから
先ほども書きましたが、人生というのは悲しいもので、どんなに頑張ってもその努力が報われるとは限らないし、逆にどんなに手を抜いても良い結果を残せてしまう場合もあります。
身近な例をあげましょう。
学校で、試験を受ける日が近づいています。あなたは誰よりも真剣に授業を聞きました。寝る時間も惜しんで。学校の休み時間も一生懸命に勉強しました。たくさんの問題を解き、たくさん間違えましたが、誰よりも勉強した自信があります。隣の席の子を見てみると、授業中は寝ているし、休み時間は友達と遊んでいるし、聞いてみると毎日遅くまでゲームで遊んでいると言います。
試験の日。あなたはわからない問題に直面し、不安になります。「いままであんなに頑張ったのに…」と自分に腹が立ってきます。隣の席の子はすらすらと問題を解いているように見えました。あなたは余計に焦ってしまいます。
答案が返され、あなたはなんとか平均点をとることができましたが、隣の席の子は教室で一番の点数を取り、先生から褒められていました。
この例の場合、もしかしたらあなたが「隣の席の子」の立場になっている可能性も十分にあります。
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
松浦清(肥前国第9代平戸藩主)
という言葉がありますが、実際のところはこうもいかないはずです。
人生に生きる意味がない理由2つめ: どうせ死んでしまうから
私は不老不死を理想としているわけでもなく、人工的な延命治療を望んでいるわけでもありません。ただ、私達はどんなに望んでも、逆にどんなに望んでいなくても、いずれ死ぬのです。
2021年現在、世界でもっとも長く生きた人でも、だいたい120歳程度です。つまり、私達が生きている間に医療技術が劇的に発達しなかった場合、私達は120歳までにはほとんど死んでしまうのです。
そして、死んでしまった瞬間、私達は、地上にほとんど何も残せずに死ぬのです。
学者の場合は業績、資産家の場合はお金、職人の場合は作品、有名人の場合は名前などを残すこともできますが、地上にたくさんいる人とすでに死んでいるたくさんの人の中で、それらはどうせ埋もれてしまうでしょう。
業績は古くなって役に立たなくなり、お金の価値は変わり、作品は時代遅れだと言われ、「そんな人誰?」と言われるのが世の常です。
もちろん、ごく一部の例外はあります。ただ、大半の場合はこのようになるのではないでしょうか。
人生に生きる意味がない理由3つめ: 死にたいときに死ねないし、死にたい人が死ねないから
人々が、戦争や災害や事故や事件や病気など、様々な理由で亡くなってしまうのは、いつの時代でも悲しいことです。それは「死にたくて死んだわけではない」ということがわかるからでしょう。とくに、闘病中の人々が「まだ死にたくない」と言いながら死んでいく様子は、たくさんの本や映画などになり、人々の涙を誘います。
全く関係ないですが、私が一番好きな闘病記はこちらです。聞いているだけで痛みが想像できてしまうような壮絶な病気のことを笑いを交えて書くことができるのは、まさに彼女の才能だと思うのです。

私は国内外の精神疾患の自助グループ(患者さんどうしが互いに支えあうグループ)に参加していますが、そこで度々話題になるのは安楽死の話です。精神疾患になると、「この病気は一生治らないのではないか」と思ってしまうものですから…。私は精神疾患がある方が本当に望み、これ以上治療しても治らないか改善しないようなら、安楽死という選択肢があっても良いのではないかと思うのです。それは、結果的に自殺を減らすためにも役立つはずです。なぜなら、「本当につらくなったら安楽死すればいい」という新たな選択肢が生まれるからです。「いつでも死ねるのだから、それなら今日はもう少し頑張ってみよう」という選択もできるのです。
絶対に実現しないのはわかっているのですが、精神疾患などで死にたい人と、病気などで余命が長くないけれど死にたくない人をマッチングさせるシステムがあってほしいとよく思います。余命が長くない人を数人集め、人がひとり死ねるだけの(短い時間の)苦痛を集め、精神疾患がある人に安楽死という選択肢を与え、そうして精神疾患がある人が生きたであろう時間を余命が長くない人に還元するというシステムです。
人生に生きる意味がない理由4つめ: 心を病むのはいつだって「良い人」であり「被害者」だから
凄惨な虐待やDVやいじめなどが起きると、数十パーセントの人が心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの精神疾患にかかるといわれています(飛鳥井望先生のこちらの本に書いてあったはずです)。
圧倒的に多くの場合、それらの精神疾患にかかるのは被害者であり、加害者ではありません。
彼らが精神科医や心理士のもとに行くのには大半の場合お金がかかりますが、それを負担するのも被害者です。
加害者に刑事罰を与えるのは困難であり、多くの時間とお金を費やします。そうして仮に加害者が懲役刑に服したとしても、死刑にならない限り、数年たったら刑務所から出てきて日常生活を送れてしまいます。その間被害者の人生はズタズタに引き裂かれ、たとえ病気が治ったとしても(精神疾患においては「寛解」といいます)もとの人生など絶対に取り戻せないのです。
被害者の人生は、被害を受ける前とは完全に違っている
ここで分かりやすいたとえを紹介します。
まず、折り紙を用意します。これがあなたの人生です。それが何らかの要因によって、ぐちゃぐちゃに丸められたら、当然跡がついてしまいます。たとえ紙を真っ直ぐに戻せたとしても、それは元の折り紙ではないのです。
もしくは、陶器を用意します。陶器を高いところから落とすと当然割れます。割れた陶器を接着剤などで治しても、それはもとの陶器には戻りません。
ちなみに、この陶器を治すときの「金継ぎ(きんつぎ)」という手法は、「傷ついた商品に付加価値をつける手法」「使えなくなった商品に新たな人生を与える方法」として、海外で高く評価されています。もちろん、精神的であったり心理的な意味に拡張して使われてもいます。

イタリアでは、このように紹介されています。
以下、翻訳します。
日本人が壊れた物を修理するとき、亀裂を金で埋めることによって亀裂を強化します。 何かが傷つき、物に歴史があるとき、それはより美しくなると信じています。
この技術は「金継ぎ」と呼ばれています。
本まで出版されています。
話がそれましたが、何の罪も犯していない人が、人生も精神も何もかもを壊されてしまうのは、不条理でしかないことです。そのうえ、彼らには薬物療法やカウンセリングといった対症療法しか残されていないので、原因である出来事を変えることはできません。
人生に生きる意味がない理由5つめ: 努力次第でどうにもならないことが多すぎて、生まれた環境で人生の大半は決まってしまうから
一部の人は、先進国に生まれた時点で人生はかなり簡単なものになり、発展途上国に生まれた場合の人生は先進国のそれよりもはるかに難しいと言っています。
留学や海外移住の難しさ
たとえば、先進国に生まれた人が留学するのと、発展途上国に生まれた人が留学するのでは、難易度が圧倒的に違います。発展途上国の場合、中等教育や高等教育を受ける割合も、留学に関わる情報や機関も、留学をするための資金も、発展途上国には足りていないからです。
日本人が得る20万円(約1500ユーロ)はだいたい月収と同じ額ですが、ベトナム人にとって20万円は、月収の約8-10ヶ月分に相当します。これだけを比較して「ベトナムよりも日本のほうが暮らしやすい」とはいえません。なぜなら、ベトナムの場合は月収が低くても、家賃や食費が安く抑えられるからです。

ただ、日本人とベトナム人が同じ国に留学あるいは移住した場合、最初に持っていけるお金の額は当然違います。
そもそも、もっと貧しい国の場合、たとえばルワンダの農村部を例に挙げると、月収は約4000円(約30ユーロ)とされています。

このような国から、先進国に留学あるいは移住するのはほぼ不可能です。
国籍を変える難しさ
また、国籍も生まれた段階で決まっています。イタリアは血統主義(ius sanguinis)を使っているため、両親がイタリア人である場合、こどもはイタリア国籍を取得することができます。これは日本も同じです。
対立する概念として出生地主義(ius soli)があり、代表例はアメリカ合衆国です。両親が日本人であっても、こどもがアメリカで生まれた場合はアメリカ国籍を取得できます。そのため、こどもにアメリカ国籍を取得させ、こどもの国籍をもとに両親も国籍を変えるという「出産旅行(turismo delle nascite)」をする人もいます。


たとえばハーフとして生まれた、つまり両親の国籍が異なっている場合、多くの場合、両方の国籍からこどもが好きなほうを選ぶことができます。私の友人は、イタリア国籍も日本国籍も取得できる立場にありましたが、日本に長年住んでいることなどを理由に日本国籍を取得しました。
国籍について困るときは、海外移住などで住んでいる国を変えたいとき、つまり住んでいる国と自分の国籍が異なる場合です。永住権や国籍を持っている人は、そうでない人と比べていろいろな場面で有利になります。(こちらも参考になります)
私がイタリア国籍を取得するメリットとしては、具体的には、
- 滞在許可書(permesso di soggiorno)の申請やビザの申請をしなくてもイタリアに滞在できること(これだけが目的の場合は、無期限の滞在許可書、carta di soggiorno illimitataでも事足りる)
- イタリアのパスポートが持てること(ビザなし渡航ができる国では日本のほうが多いが、EU圏内を自由に移動したい場合はイタリアのパスポートのほうが有利)
- 日本人ではなくなるという解放感。イタリア人になれるという嬉しさ。
イタリア市民権(cittadinanza italiana)の利点を解説している弁護士さんによると、
欧州連合(EU)のすべての国を自由に移動でき、これらの国の1つに定住して働くことを決定できます(滞在許可書では、これは不可能です)。
イタリアでの参政権、つまり投票したり選出されたりする権利を得られます。
公職と公務を行うことができます(同じ教育資格と専門資格で、滞在許可書を持つ外国人は公職と公務を行うことはできません)。
参考までに、外国人が日本に帰化する(日本国籍を得る)メリットも掲載しておきます。
①ビザなしで入国できる数が多い(日本のパスポートが使える)
②日本での参政権が得られる
③職業の選択が自由になる、就労活動の制限がなくなる
④日本の社会保障が受けられる
⑤在留資格など外国人としての各種手続きが不要になる
私はイタリア国籍を取得するために、現在イタリアで頑張っています。これは親がイタリア人であればしなくてよい苦労なのですが、こんな泣き言を言っていても何も生まれないので頑張ります。
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