日本のメディアでは、「日本が持っている長所が世界から称賛されている」とか「日本では当たり前のことが世界では素晴らしいと絶賛されている」といったことを頻繁に報じているように思う。前者の例は、2022年のワールドカップでのロッカールームの清掃で、後者の例は日本の鉄道が理由なしに決して遅れないことだろう。
もちろん、ワールドカップの清掃は不要だとか、鉄道がもっと不便になっていいということを言いたいわけではない。このような報道が不要だと言いたいわけでもない。過度に愛国心を煽っていると戦争につながるなんていう机上の空論を述べたいわけでもない。日本はディストピアでこんなに地獄だとか日本の評価を下げたいわけでもない。
しかし、「世界が絶賛する日本」ということに、私は全く価値を見出していない。なぜなら、その評価は「他人軸」のものだからだ。もしもロッカールームの清掃をしたことを世界の誰からも認められなくて気づかれなくても、それには価値があるだろう。次にそのロッカールームを使うひとが気づいてくれればそれでいいし、気づかれなくてもそれはそれでいいだろう。日本の鉄道がインフラとして機能して便利であることは、誰かからほめられなくても、そのほうがどう考えても便利になる。それでいいじゃないか。世界からどう言われようと、日本の良さを変えることや、日本を無理やりグローバルスタンダードに合わせることなんて必要ないじゃないか。逆に、「誰かが日本のある部分を不便だと言った」からという理由だけで、何かを強引に変えなくてもいいじゃないか。それが理にかなっていると判断したのなら、その意見を参考にすればいい。そうでなくてただ「誰かに言われたから変えよう」なんていうのは、あまりにも他人軸すぎる。
グローバル化の時代に、個性があるのは当然のことだ。誰しもその人の色があり、癖があり、欠点がある。国だって同じだ。日本は他の国のようになる必要はない。他の国の良いところはどんどん取り入れ、他の国の失敗は参考にして、それはいいのだが、日本が持つ色を無理して変えることはない。もちろん、例えば差別や迫害といったことは変えていかなければいかない。日本が戦争に向かっているのならば、それはなんとしてでも止めなければいけない。戦争とは人殺しで、罪のない一般市民が巻き添えになる。どんな理由があっても戦争を肯定してはいけない。しかし、それ以外の面においては、無理して何かを模倣したり、誰かの視線や評価を気にしていたりしては、日本の色、つまり日本でしかできないことができなくなってしまう。
「神戸で海外旅行気分を味わおう」という広告を見た。しかし、人々が神戸に求めるものはヨーロッパのような歴史的な街並みや建築物ではないだろう。まして中国にあるようなエキゾチックな街並みや活気のある景色ではないだろう。外国人が多く住んでいた街として、日本の文化と欧米の文化がどう融合したかを見るために人々は神戸に行くのだろう。海外旅行をしたかったら海外に行けばいい。お金や時間がなくて行けないなら、YouTubeなどで映像を見ればいい。もしくは、ハウステンボスや志摩スペイン村のような人工的なテーマパークに行けば「海外旅行をした気分」を味わうことができる。神戸に求められているのはそういったものではないだろう。神戸でしかできない体験をもっと前面に出して観光客を誘致することが大切なのであって、神戸をヨーロッパや別の地域に染める必要はない。
必要なのは尊敬よりも尊重なのではないだろうか。個性はあって当たり前だ。全世界が均一になってしまっては味気ない。日本の欠点は直すべきで、日本の長所は伸ばすべきだ。しかし、その過程において他人の評価や視線を気にしていては、日本の良さが余計に失われてしまう。そして、その色を互いに尊重することが大切なのではないか。例えば破壊しか生み出さないような戦争を肯定するといったわけではない。右翼だろうと左翼だろうと、リベラルだろうと保守だろうと、その意見に一定の理由がありそれが納得でき社会から容認できるものであるならば、それは尊重されるべきだ。
さて、話がそれているが、「海外から尊敬される日本」といった文脈では、「海外から尊敬されなければ意味がない」とも読み取れてしまうことがある。そういったことではなく、「日本らしさを尊重して認めます。その代わりにイタリアらしさも日本は尊重してくださいね」といった、互いの価値を認め大切にすることが必要なのであろう。
もちろん、他人が「世界から尊敬される日本人になるために頑張る」と言うのであれば、それを私は尊重する。しかし、尊敬はできない。私の意見と彼の意見は異なるから、尊重はするが、尊敬はできない。
日本が、そして他の全ての国が、そして全ての人間が目指すべきなのは、誰かから評価されるという他人軸のことではなく、自分の個性や自分にしかできないことを大切にするという自分軸での意見だ。
中島義道さんという日本の哲学者が述べていることを参考にして考えた私の意見だが、「他人からよく思われたくてした全ての行為は、たとえ美しいものであっても、道徳的によい行為とはいえない」ということだ。もちろん、サッカー日本代表が他人の目を気にしてロッカールームを清掃したと言いたいわけではない。その本当の意味は、彼らにしかわからないし、彼らですら把握していないかもしれない。そして「道徳的によい行為というものを、何よりも大切にして求めていかなければならない」という結論で中島義道さんの本は終わっていたと記憶している。もし記憶違いがあればそれは修正してほしい。
「友人に評価されたくてアメリカに留学することに決めた」というのは他人軸の意見だ。「私が叶えたい夢があり、それはアメリカでしか実現できないからアメリカに留学することに決めた」というのは自分軸の意見だ。結果は同じでも、動機が違う。そして後者こそ真に評価されるべきものなのだ。
だから、「世界が評価し尊敬する日本」という報道に一喜一憂することはない。日本の未来は日本に住む全員に委ねられているのだ。報道はあくまでも事実や彼らの意見を伝えるだけであって、それ以上の意味はない。そして、「世界から尊敬される日本人」を目指すのではなく、「世界に恥をかかない日本人」を目指すのではなく、自分が憧れる自分に到達するという、あくまでも自分の努力でどうにでもなることを目指すべきなのだ。そして、私たちがやるべきことをきちんとしていれば、適切に誰かが評価してくれる。やたらと足を引っ張ってくる人を過度に気にする必要はない。あくまでも、自分のやるべきことをしていて、それが評価されたら、評価してくれる人を大切な友人として見るべきなのだ。
更に言えば、自分が日本人であるかそうでないかということは、帰化した場合を除いて自分では選べないことである。たまたま日本という場所に、両親が日本人である家に生まれたということだ。それは自分が努力して手に入れたものではないから、過度にけなす必要はないが、だからといって過度に誇るべきものでもないように私には思える。愛国心を持つことはいいことだし、自分の境遇を好きになれればそれに越したことはないが、たまたま生まれた場所を誇りに思えないからといって無理に誇ろうとしなくてもいいように思う。あなたは何らかの偶然でたまたま日本人になっただけで、ほかの国に産まれていた可能性だってもちろんある。いずれの場合にも、無理することはない。学校で嫌な同級生と一緒になるか、それか同級生に恵まれるかということと全く同じことで、日本を好きになるか嫌いになるかは産んだと思う。相性が合うかどうかの話だからだ。教室はたまたま同じ地域に同じ年齢の人を寄せ集めただけの場所だが、国だってそうだ。たまたまその場所で妊娠した母親がたまたまそこで産んだというだけの話なので、それを好きになれなくても、逆にすごく好きになっても、それは過度に誇るべきことではない。自分が努力して手に入れたもの(例えば、学歴や職歴、海外移住、語学力など)を誇るほうがよっぽど健全であると思う。
自分軸で生きよう。自分にしかできないことをしよう。そうしていれば、きっと誰かが見ていてくれる。
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