メッシーナ地震とは
イタリア南部にある都市であるメッシーナと、レッジョカラブリアなどのメッシーナ海峡沿岸にある諸都市を完全に破壊する地震が起きたのは1908年12月28日、午前5時20分のことです。月曜日でした。10メートルを超える津波が発生し、10万人前後の人々が命を落としました。しかし、犠牲者のほとんどは津波ではなく地震そのものによって命を落としており、これは東日本大震災という、日本で2011年に起きた震災で亡くなった人の9割以上が津波の影響下であったことと対照的です。(出典: Natural Disasters)私はいつかメッシーナに行ってみたいと思っていますが、残念ながら行ける予定がありません。現在ではメッシーナはシチリア島が有する大都市で、20万人以上の人口を抱えています。(出典: ISTAT)同様に、レッジョカラブリアの人口は約18万人です。当時シチリア島に住んでいた人口の半分が命を落としたといわれています。(出典: Rai Storia ただしリンクは無効)
被災者を待っていた非人道的な現実
しかし、被災者が100年以上の間、スラム街のようなバラックで暮らしていたことは意外と知られていません。それは間違いなくイタリアの歴史に残る汚点ですが、多くの人には(とくに外国人には)知られていないことです。そのバラックの生活環境について書かれた記事を私はまだ読んでいませんが、バラックが壊される時点で数千人の人々がそこに暮らすことを余儀なくされていたと書いてあります。(出典: 後述)
100年以上に渡り、社会から見放され隔絶された
1908年から今まで、イタリアでは複数の破壊的な震災が起きています。1915年のアベッツァーノ地震、1980年のイルピニア地震、2016年のアマトリーチェ地震などがあります。アベッツァーノはアブルッツォ州にある街で、私が留学していたラクイラとさほど離れていません。そのラクイラでも2009年に震災が起きていますが、それに関しては今回は書きません。イルピニアとは当時の地域の名前で、ナポリ近郊にあります。アマトリーチェはラツィオ州リエーティ県にありますが、古くはアブルッツォ州の一部でした。そのため、アマトリーチェの文化、歴史、方言などはアブルッツォ州のそれと共通している箇所が多くあります。しかし、それらの震災よりもずっと前に起きた震災の被災者が、二度の世界大戦とその後の国の発展の陰で置き去りにされたという事実は、あまりにも衝撃的で、あまりにも胸が痛くなることです。
被災者が語る心痛、胸中、絶望
しかし、国からも社会からも見放された被災者の存在は、メッシーナ地震に限ったことではありません。実際、特にアマトリーチェでの地震の被災者は、「国は私達をひとりにしないと言ったのに、国から届く知らせは税金の催促ばかりだ」「私は家を失ったが、政府が助けてくれるわけでもないので自分のお金と自分の力で再建するしかない」「復興が進まない街には仕事もなく、とくに若者はローマやミラノなどの都会に移住するしか道が残されていない」「中心街には美しい建物や広場がたくさんあったのに、現在は立ち入り禁止区域になっていて、それを見るのはとても胸が痛む」「仮設住宅の建設は進んでいるが、十分ではなく、結局私は親族宅に身を寄せるしかなかった」と私達に語っています。仮設住宅について触れましたが、仮に仮設住宅に入居することができても、その住環境は極めて劣悪です。それに関しては、また記事を書くことにします。
人間性を失わせる環境
震災直後のアマトリーチェの様子がメディアに公開されたとき、外国人は「こんなことがイタリアという先進国で起こるはずがない。これはシリアが爆撃を受けた映像に違いない」「この画像はフェイクであるか、別の国の映像だろう」とコメントしていましたが、残念ながらそれは実際に起きたことであり、そのような光景は現在もイタリアの多くの被災地で見られます。彼らは人間としての尊厳と、権利と、誇りを全て奪われたまま、人間を人間として扱われることのない場所で生き、そして死んでいったのです。
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