こんにちは、ほのかです。今回はよくイタリア人の友達から言われることを記事にしてみました。
私はイタリア中部のラクイラという街に留学していたのですが、ラクイラ近郊に住んでいないイタリア人にそれを伝えると、「12年前(※2009年)に地震があったところでしょう?」とよく言われます。しかし、実際にラクイラの人はそう言われることにかなりうんざりしていて、「私達の街の魅力を知ってほしい」と私達に訴えます。
そんな目で見ないで
以前(2018年ごろだったと思います)、主に日本人の読者を対象として作ったWebページ(https://te2ha.jimdofree.com/)があるのですが、ここには次のようなことを書いています。
「多くの日本人にとって、「ラクイラ」と聞いて思い浮かべるものは、2009年の震災であると思います。そして確かにその悲しい出来事は、日本人に「ラクイラ」という聞きなれない街のことを知らせたでしょう。しかし、言うまでもなく、ラクイラは2009年までは「被災地」ではなかったわけで、そして今現在も約6万7000人の方々が住んでいる、ひとつの街です。私の友人達は故郷を追われた人もいますが、そこに住み続けている人もまたいます。ある友人は生まれてからずっとラクイラに住んでいます。そして、彼らはラクイラという街に強い誇りを持っています。ラクイラに限らずイタリア人はcampanilismoと呼ばれる、強い愛郷心を持っています。例えば、「日本にある釜石市って、地震の被災地なんだよね?」としか外国人に思われていなかったら、あなたはどう思いますか?もし釜石市があなたの故郷だったら、もしくは釜石市に友人がいたら、あなたは「もっと、素敵な港や私たちの歴史など、震災以外の面を知って
」と思うのではないでしょうか。そして、その外国人は釜石市がどれくらい復興したのかを知らない。一部は、釜石市はとっくに復興したと思い込んでいる。それはとても悲しいことだとは思いませんか?少なくとも私が釜石市民ならすごく嫌です。日本の多くの人々は、サン・ベルナルディーノ大聖堂やコッレマッジョ大聖堂などのこんなに素晴らしい観光名所があるのに、ラクイラを「被災地」としか見ようとしない。試しにインターネットで検索してみると、地震に関する記事がとても多いことに気付きます。」
人間としての尊厳を大切にする
実際、このようなことを言う人はラクイラだけにいるのではありません。私の友人はアフリカで貧しいこどもたちを支援しているのですが、
「アフリカは貧しい場所だという固定概念や安易な同情が多くて、嫌になってしまいました。日本人が絶対に着ないような明らかな古着を私たちに送ってきますが、実際彼らだってそういうものを着るのは、よほど貧しいか緊急的な支援を要する状況でない限り、嬉しいことではありません。そういう現地の人の声を良く聞きます」と語っていました。さらに、「安易な同情は必ずしも悪い意図があるのではなく、支援する側の人は支援される人の幸福を願って行う、悪気がないことが多いのですが、実際安易に古着を寄付することは、その土地から産業が生まれることを防いでしまいます。国際協力の裏側はあまり語られることがないですが、実際そのような側面もあるということ、そして安易な同情は何も良い結果を生まないことを知ってほしい」
と語っていました。
ラクイラは、彼女が働いているようなアフリカの貧しい地域(アフリカすべてが貧しいわけではありません、これが多く誤解されていることなのです)と比べたらはるかに裕福ですが、イタリア人からも「何もかもを失ってしまった可哀想な人たち」「心も体もめちゃくちゃに壊れてしまった悲しい人たち」とみられている側面は実際にあります。そして、私自身も一時期、「彼らを助けたい!」と躍起になっていた時期がありますが、彼らの人格を尊重する、人間としての尊厳を考えるといった基本的なことを忘れていたのです。そのため、実際に「被災者は可哀想な人たち」というステレオタイプに満ちた行動をしてしまったのです。
被災者を支援する方法
安易な同情はいけない。安易な支援もいけない。それなら私達はどうやって被災者、あるいはアフリカの貧しい人たちを支援したらよいのでしょうか?結局、彼らを支援する最良の方法は、金銭的な援助なのです。お金はいろいろな方法で使えますし、何よりゴミを生みません。現地の産業を破壊するリスクも、その寄付金を正しく使えば減らせるのです。たとえば古着を送ると、それが不要になったり支援したい人の元に届かなかったりすると、その分手間やお金がかかります。それならまだ着られる古着をオンラインで売り(日本ならメルカリやヤフオクなど)、そのお金を寄付したほうが、彼らのためになるのです。
しかし、被災者ひとりに対しお金を渡すと言うのは、あまり現実的な方法ではありません。そのようなときは、彼らが必要としているものを渡すか(それは時期ごとに、街ごとに異なるので、聞いてから送ったほうが良いです)、温かい言葉をかけることが現実的です。
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