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This blog is written by a blogger and YouTuber, a university student currently living in Kyoto and Rome, about studying abroad in Italy and other thoughts and feelings.
京都とローマの二拠点生活をしているブロガー兼YouTuberである大学生が、イタリアでの留学生活やその他感じたことについて書くブログです。
Questo è il blog di una studentessa universitaria, blogger e YouTuber che vive a Kyoto e a Roma, che scrive della sua vita da studentessa in Italia e di altre cose che sente.

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安楽死を合法化し、生きることは義務ではなく権利にすべき

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こんにちは。私は病気があるかないかに関わらず、全ての人が安楽死を求めれば実行できる社会になるべきだと強く感じています。なぜなら、安楽死を合法化することで、「救われる」命があると信じているからです。

事実、安楽死というのは人を殺す行為です。そのためにタブー視されています。活発で自由に議論をすることを望んでいる人はそれほど多くはないでしょう。しかし、一部の人には、安楽死こそが救済であり、安楽死こそが自分の最良の決断と思っている人もいるのです。私もそうです。

私達は、自分の意志で生まれてきたのではありません。私達は強制的に生まれさせられたのです。日本の詩人である吉野弘は、「英語では『私が生まれる』というときに能動態ではなく受動態を使う」と述べています。両親が望んだから、私達はここにいるのです。しかし、両親が望んでいない妊娠をした可能性もあるし、仮に妊娠を望んでいたとしてもこどもは虐待の被害者になるかもしれません。そして10年も生きていればわかるように、私達の人生には自分の意志でどうにも変更できないこと、つらいこと、苦しいこと、悲しいことがたくさん待っているのです。私達は楽観性を持って生まれてくるので、こども(未成年という意味ではない)でいるうちは、未来は希望に溢れた輝いているものだと思っているし、人生は楽しくて生きる価値があるものだと思っているし、そう社会から洗脳されているのですが、おとなになるにつれてその洗脳から解け、人生の暗い側面を見ることになるのです。私は生まれてきたくなかったのに、なぜか今ここに生きることを強制されているのです。この暴力性、この残酷さが、安楽死への議論をするべきだと私が考えている理由です。

さて、そうして仮に「私は生まれたくて生まれてきた」と言う人がいたとしても、その人の人生は決してすべてが「バラの花のように」なっているわけではないでしょう。そういう人も、人生でいくつもの困難を生き延びてきたのです。しかし、「人生が苦しいもの」だと認めてしまうとその人はその後の人生を生きることが困難になるから、無理やり自分自身を洗脳させて、魔法の力の中で生きようとするのです。しかし本人は気づいているはずです。彼らは生きていくことがそんなに良いことでもなく、死ぬだけの理由も勇気もないからただ惰性で生きている人と、彼らがそれほど異ならないことを。

看護師を養成する大学では「自殺は勇気ある行動ではない」と教えます。もしも自殺を奨励したり英雄視したりしたら私達は生きていけなくなるからです。

そして、私達は、遅かれ早かれ死んでいくのです。どんなに生きたいと願った人も、どんなに自殺を望んでいる人も、もしくは自殺はしたくないけれど早く死にたいと思っている人も、彼ら全員に市は訪れるのです。どうせ死んでしまうのだから、人生に意味などありません。意味のない人生に無理やり意味があると思い込むのですから、人生はより苦しくなるのです。そして、何もかもが不平等な人生でも、死ぬことだけは、誰にでも訪れるのです。それが救済となる人もいれば、それを最も恐れている人もいるでしょう。

しかし、生きていることは強制されるべきことではありません。それはあくまでも人間が持っている権利ではあり、義務ではないのです。人生に何の光も見いだせない人に、「あなたは生きなければならない」と説教をすることがどれだけグロテスクなことだかわかりますか?安楽死を認めないということは、同じことを社会が私達に強いているということです。そして死ぬことも、どうせ死んでしまうのですから、それを少し早めること、もしくは苦痛を減らして死ぬことを、権利として認めるべきなのです。安楽死は「一部の人が選ぶ権利」であり、「全員がすべき義務」ではないのです。安楽死を合法化し、全ての人に安楽死への扉を開いたとしても、それはあくまで一部の人に可能性や選択肢を与えるだけで、全員が安楽死を認める必要はないのです。

私達に生きることを強制せず、死ぬ権利を与えてください。これが私が読者に伝えたいことです。安楽死を望んでいる人は、表面化しないだけでたくさんいると思っています。彼らに救済を与えてください。

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